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−まずは、シリーズ第2作目となる劇場版『機動戦士ZガンダムII−恋人たち−』が公開になるということで、この劇場版の企画が立ち上がった経緯からおうかがいしたいと思います。

富野 最初の放映から四半世紀以上経った今でもガンダム人気が衰えず、若いファンが発掘されるようになっています。でもその人気が、現在の現象だけで作りあげられたのではない、というのがあります。ファーストガンダムから劇場版3部作をやったわけだから、『Z』で同じことをやってもいいんじゃないのかということで企画が立ち上がって、老骨鞭を打ってトミノが再構成という形で作っている……ということです。

−いろいろなインタビューでも答えられていると思うのですが、富野監督にとって、TVシリーズの『Zガンダム』というのは、どういう作品なのか改めてお聞かせください。

富野 自分では印象の悪い作品で、いわゆるガンダム以後ヒット作品を作れないなら「ガンダムしかないだろう」「もう一度ガンダムを作れ」って言われて作ったのが『Zガンダム』だったわけです。それは作り手としては外部から死刑宣告を受けたみたいな企画だったんです。なおかつそれを作らざるを得なかったというのは、他に仕事がなければ、フリーというのはそれをやるしかないという“追い込まれ感”がある記憶しか残っていない作品だったんです。
  そうは言っても、当時は自分自身も若かったので、そういう状況の中で、なおかつ外部に対して“カウンターを出していかなくちゃいけない”と思っていました。ガンダムを使いながらも、“自覚的”に作品を作ってみたいという思いがあったわけです。――が、敗北感が強すぎて、極めて内向的な作品になってしまいました。死刑宣告を受けながらも、敗北をして見せない作り方というのはどういうところにあるかというのを考えていったことが、一番内向していった原因だったんです。内向しながらも、外部に対して「だけど、こうだろう!」、そして「戦争ものを作るならこうなってしまうだろう!」というのをカウンターとしてすべて吐き出したのが『Zガンダム』という作品だったのです。
  いま言ったような過程を経て作品を作ったわけだから、結果として、自分自身印象がいいわけがなく、今回の劇場版のために2年ほど前『Zガンダム』を全部見直すまでは、そういうイヤな記憶だけが思い出させられる作品でした。もう20年間も見てなかったわけですから、思い出さなくてもいい記憶を、思い出させられてしまったという意味では、かなり過酷、イヤな仕事でした、というのが、TV版に対する印象です。

−それでは、TV版をすべて見直したあとは、どうだったのでしょう?

富野 見直して以降、本当にストーリーも忘れていたんですけれども、それでも自分の作ったものなんで、どこに問題があるかということはわかっていたから、もう一度“カウンター”を出せるなとも思いました。つまり、自分がイヤだと思っていた部分を、すべてきれいに見せるということができるのではないかということです。それから、この歳になれば、そういうスキルを手に入れているのではないかという、自分の未知数の部分に賭けたということはあります。
  そして、3部作の構成に入りました。1部の作画に入った時には、3部までの全部の構成がおおむねでき上がっていましたから、あとは部分的な修正をするだけになっていました。ここ1年はその細かな修正だけですから、この歳になれば直せるのではないかという勘は外れていなかったんではないか、という結果を手に入れているのが現在です。3部のすべての感想を言うとすると、おそらくイヤな記憶を残さない作品になるだろうと、思っています。

−第1部の『星を継ぐ者』を観られた方はたくさんいると思います。やはりTV版と比べると、かなり印象が違いますよね。非常にさわやかな印象を受けました。それに続く第2部はどのような印象になっていますか?

富野 第2部は単純に1部の印象を受けたうえで、3部につなぐための期待感を持たせる作品にしたつもりでいます。観る方の印象がどうなのかという問題はありますが、作り手の立場で言えば、おおむね最低限のものはクリアしたのではないかという自信はあります。

−『星を継ぐ者』は動員数も多く、かなりヒットしたのではという感じがあるのですが。

富野 大台(10億円)を超えていないので、ヒットしたとは言えないですね(笑)。

−では、2部、3部でそれを目指すと……?

富野 それは非常に大事なことなんです。欲をかいているように聞こえるかもしれませんが、映画を作るということは本来、メジャー化する、大衆に対する芸能としてきちんとした位置付けにするために、ヒットしなければいけないものなんです。現在はもう「アニメだから」というエクスキューズは効かないわけです。ひょっとしたらもう「ロボットものだから」というエクスキューズも効かないかもしれない。もっと言っちゃうと、「ガンダムだから」というのもなくって、映画にするからには、一般娯楽としてヒットさせなければいけないというところまできているのかもしれません。つまり劇場公開にかける映画は、作り手が好きに作っていいものではないということです。新しい画も入っている、20年前の画も入っている、そういうギクシャクした映画に「人が入るわけねーよ」という意見もあります。でも映画は、娯楽なんですよ。それも含めて「おもしろいよね」って言わせなくちゃいけない。作品作りの一番の肝だと思っています。だから、かつての『Zガンダム』を今こういう風にしたから見てくれ、というものすごく簡単な言い方でしかなくて、大台の10億円を突破しないとダメなんだと思います。
  「この手のアニメとしては…」というような枕詞の付いたヒット作というのは、しょせんそれは仲間内での慰めあいごとだと思えるので、あんまりヒットしたという風には言えないんです。1部は、興行としては手ごたえはあったんですけれども、それでよしとする気持ちはまったくありません。そういうことでいうと2部というのは、3部作というのが決まってる前提で、1部をベースにして、もっと牽引力を持った作品じゃなければいけないんです。それはかなりキツいというのが正直な感想です。だけどキツいからこそ、こういう風にしたんだということも言えます。2部の感想は、関係者や試写会レベルでしか聞いていないので、一般興行に耐えうる作品になっているかどうかは、なんとも言えません。

−3部作中の2作目というのは、1部とはまったくポイントも違うのではと思うのですが?

富野 違いますよ!そうは言っても、1部に関しては、これだけ見てくださるとは思っていなかったんです。僕としては、かなり地味な映画だと思っていました。基本的な成立が、ものすごく貧乏臭いところから始まっているからなんです。笑い事ではなく、それはとても大事なことなんです。志の低いところから始まった作品を“芸能”として認められてしまって、後続に来られると非常に迷惑なんです。そういう作品をここまで支持してもらっているという点では、非常にありがたいことです。そういう意外だった部分、1部の手応えをここまで想定していなかったので、2部をもっと引き上げなくちゃいけない、というところでまとめていったという経緯があります。1部のさらに上をいくのは当然として、問題なのは、1部がああいう風にまとまった以上、2部のまとめかたの了解論として、かなり厳しくなっているのは間違いないですね。それはどういうことかというと、『恋人たち』というサブタイトルが、完全にそれを表現しています。1部がかなり高質なロボット戦闘ものにもなってるし、さわやかな部分もあるよね、というのに対して、2部は物語として群像劇というのが前面に出ていて、事態だけが進んでいるのを追いかける、という見え方があります。1部に比べて、ハード過ぎるとも考えましたから、『恋人たち』というサブタイトルを付けて、ハードな部分を男と女の恋愛話に持っていって、戦闘のハードな部分を和らげるようにしている、という構造にしています。そうしていながら実際に見始めると、恋愛ものといいながら、恋愛ものとしての部分は矢継ぎ早でジェットコースターなんですよ。その部分で、観客の皆さんがどういう感想を持って見てくださるかが心配ではあります。
  ただ、僕の感じている若い人たち、つまり『マトリックス』以後、観客はこのテンポについていけるだろうという予測も含んだ上で構成してありますので、期待していただいていいと思います。
  ただ、初めて見る人には、ちょっとキツいだろうなという感覚はあります。僕も指摘を受けるまでは気づかなかったんですけど、1部目は専門用語が多すぎるって言われたんです。それはものすごくビックリしました。僕としては、専門用語なんてどこにも入ってないと思っていたんです。でも見たことのない人にとっては“ガンダム”というのも専門用語なんですよね。それをこちらとしては、一般名詞だと思いすぎていました。まだまだそういう迂闊さがあるな、というのは非常に反省しています。だから、初めて見る人には専門用語が多すぎて何の話をやっているのか解らない、と思われるかもしれません。ただ、僕にとってはすべて専門用語ではなく一般名詞なので、意味が解らなかったら、そんなものは飛ばして見ていただければいいわけです。「人物の動きだけを見ていれば、『Zガンダム』でやっていることは解りますよ」と言いたいです。現に映像構成としては絶対にそうしています。「この人とこの人はこういう関係なんだ」「この人は敵だけど、こうなっちゃうんだ」という人間関係をつかめていればいいんです。つまり、ロボット戦闘ものでも様々な恋愛エピソードを入れこんだ作品を作れるんです。それくらいやっています。バラエティーシーンとしては、おもしろい映画になっていると思います。

−先ほど、『マトリックス』以降という話が出ていましたけれども、それはいわゆるガンダム世代だけではなく、若い人にも見て欲しいということなんでしょうか?

富野 そういう意味では、“懐かし映画”にする気は、最初から毛頭ありませんでした。“懐かし映画”にするのなら、一番イヤだった部分を綺麗にするという作業ができなくなるんです。当時のままでまとめるしかなくなります。それに、20年前のZのテイストを現在に当てはめることはできないし、絶対にやってはいけないんです。つまり、これだけ“癒し系”という言葉が受け入れられている世の中で、「お前ら、“癒し系”なんてふざけるな!」という作品を作るわけにはいかないでしょう?極端に言うと、『Zガンダム』が、ロボット戦闘ものが“癒し系”を目指しているんです。それは、第3部でもっと鮮明に出てきます。ですから、『電車男』を好きな人も、絶対に観られる作品です。

−なるほど。時代にあった作品作りというのは、当然だというわけですね。自分は試写会で2部を観させていただいたんですけれども、物語の流れも、子供たちの流れと、大人たちの流れに分けられていて、非常にわかりやすくなっていた感じがしました。

富野 相当大変でしたが、そういう整理にものすごく時間をかけたんです。けれど、僕にとって映画というのは、それが出来る機能を持っているものだと思っています。それを改めて確認させてもらえる作業をこの2年間やらせてもらいましたので、実際の制作に踏み込んでからは『Zガンダム』の仕事はものすごくおもしろくなりました。おもしろいだけじゃなく、映画の凄さ、というのを改めて感じました。つまり映画の機能を使うと、これだけのものが放り込める。そう考えると、他の映画屋さんっていうのは、どうしてひとつのことだけで平気で2時間の映画を作れるんだろう、と不思議になってくる、というようなことも、改めて学習させられました。今は「映像っておもしろいですね」って本当に言えます。そういう部分は、『恋人たち』でも垣間見ることができるのではないかと思っています。

−『Zガンダム』1部も2部も、1時間半強ですよね。上映時間というのにもこだわりはあるのですか?

富野 ありますね。トーキーになって以降はだいたいの一般公開される映画っていうのが、1時間半、長くても1時間50分なんです。でもここ20年のヒット作というのがほとんど2時間を超えている、というのもあります。ファーストガンダムの3部作は2時間を超えていました。でも、それは過酷だなと思いました。やはり、ひと息で見られる長さというのは先人たちが作っていた1時間半から1時間50分、興行にかけて、みんなで同じ場所で見ていて、隣の人の体臭を嗅ぎながら我慢してみていられる長さというのは、非常に大事だと僕は思います。理想はやっぱり1時間40分以内ですね。3部で今やっている作業というのは、なんとか1時間40分以内に収めようという最後のツメの作業なんです。つまり、24分の1秒を見る作業というのを今やっているので、かなりツラいですね。でも、それができるのが、映画なんです。ということで、過酷ではないんです。とても面白いんです。そういうところはやっぱり、今の映画に慣れている人に見て欲しいですね。

−なるほど……ところで『Zガンダム』に続いて、『リーンの翼』の制作にかかられるということですが、どうして今、バイストン・ウェルものの『リーンの翼』なんですか?

富野 本当に作品と言えるものを生み出してきているなら、自発的な企画もあるかもしれません。けれどもそれだけの力はありませんでしたから、若い方から、こういう企画が上がれば、それを作ってみせるということです。1年ほど前に『リーンの翼』という企画のオファーをもらいまして、それならばやってみるかというわけです。

−『リーンの翼』と言っても、小説版ではなく、小説以降の物語ということになるんでしょうか?

富野 そういうことになります。物語は、まったくの新作です。それも結局、若い人の意見に従ったというだけです。そこで僕が、原作者の立場で「『リーンの翼』っていったら、小説しかないだろう」って17、8年前に書いたものを持ち出してきて、企画者とディスカッションをしていったなら、この企画は実現しなかっただろうと思います。

−なぜ若い人の意見に従ったんですか?

富野 『Zガンダム』のところでもちょっと言いましたけど、ひとりの“好き”で作れるほど、映画は甘くないんです。もちろん今回の『リーンの翼』も僕にとっては映画です。ひとりの“好き”で企画して映画を作れるような才能のある人間は、僕はこの世界にいないと思いますし、ひとりの人間、ひとりの原作者の想いだけで作った映画は観られたものではないんです。どうも日本って、映画をマイナーな感覚で捉えているところがあるんですけれど、商売にならなきゃしょうがないんです。マンガがあって、それがアニメになるっていうのも、原作者がアニメにしたいっていうだけじゃダメで、アニメにしようと思ってくれる人がいて、商売になるだろうからお金を出そうというスポンサーがいて、やっとアニメになるんです。それをもし、原作者が「オレの絵で、オレのアニメでなければいけない!」なんて思ったら、その瞬間に破綻してしまっているんです。
  企画者と出資者の関係性を考えなくちゃいけないんです。映画というのは“総合芸術”といういいかたがあるわけです。レトリックでもなんでもなく、その通りなんです。絵も必要でシナリオも必要で役者も必要ですし、スタッフの総論、つまり概念論的に「これは映画だよね」っていうところに着地しない限り、映画を作るべきではないと思うんです。だけど、昔からずっとプログラムピクチャーというのを映画会社が作り続けているという現実があって、それもありえるという通念があって、そこから自分たちも好きに作ればいいんじゃないか、と思ってしまうのかもしれませんが、それは違うんです。『寅さん』にしたって、ただ作ってるから続いていた訳ではなくて、時代の総意に乗っているから、成立していたのです。山田洋次監督だけがひとりで考えて作ってると思ったら、大間違いです。そういうところを忘れている人、思いつかない人たちが映像作品を作れてしまう世の中になっているのは問題です。そのことを認識として捉えている僕、という人間が「『リーンの翼』はこうじゃなきゃダメなんだ」なんて言ったら、僕はもう映像作品を作っちゃいけないってことになるんです。「今の時代の『リーンの翼』にして欲しい」というのは、プロデューサーだけでなく、シナリオライターだけでもなく、出資者だけでもなく、みんなの意見なんです。僕の中だけで創りあげたら、本当にちっちゃいものになっちゃうんです。だったら、面倒くさいかもしれないけれども、若い人たちの企画に乗ってやってみようとすることで、僕程度の能力の人が考えるのと違う、まったく別の見え方のする『リーンの翼』ができるのではないかと思っています。ですから、この半年、実はものすごく楽しかったですね。映画作りというのはまさに“総合芸術”だというのを実感していますし、スタジオワークから生まれるものであって、個から生まれるものではない、ということも実感しています。
  だけど、作品は、個から生まれるものですけどね(笑)。絶対民主主義が正しいわけではない。だから総意は受けなくちゃいけないけれども、最終的には個に引き戻すだけの立場を持っていなくちゃいけないし、そういう能力がなくちゃいけない。そういうことを現在『リーンの翼』で教えてもらっているところです。僕にとってはとてもおもしろいし、この歳で若い人の意志を受けたうえでやっているわけですから、自分の好きに陥らないで済んでいるんです。その上で「やっぱり富野作品だよね」って言われる作品になったとしたら、自分も監督業ができる人間になったのかも知れない、と思えるでしょうね。少なくとも、歳をとってから間違った映画を撮る監督にならなくてすむな、と。

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